現在総合格闘家として活躍している朝倉未来選手。
登録者264万人(2022年8月1日現在)のユーチューバーでもあり、アパレルなどの起業家としてのクレバーな一面もあります。
様々な分野で成功している朝倉選手はどのような生い立ちだったのでしょうか?格闘家になるまでの生い立ちに注目してみました。
朝倉未来選手の幼少期
朝倉選手は1992年7月15日愛知県豊橋市に生まれました。
未来という名前は「みらい」ではなく、「みくる」と読み、時々芸名だと間違えられることもあるそうです。
弟の朝倉海選手も総合格闘家として有名ですが、意外にも朝倉未来選手には4つ下の妹さんもいます。
妹さんは人前に出ることが苦手とのことで、これまで公の場に出たことはありません。
朝倉選手は小学生から極真空手や相撲を習っていました。
マラソン大会でも1位をとるなど、身体能力の高さは生まれ持ったものだったようです。
弟の海選手とはその頃から激しい喧嘩をしていたようです。
朝倉未来選手の喧嘩の日々の始まり
中学生になると、喧嘩に明け暮れることになります。
朝倉選手は「先輩だからってなんで敬語を使わないといけないの?」と後輩先輩の上下関係を理解できず、先輩にタメ口で話していたそうです。
先輩に目をつけられることが多くなり、呼び出しされ喧嘩に発展することが多くなりました。
先輩が複数人相手で、朝倉選手は1人でもひるむことはなく先輩に勝ち続けました。
他の学校の不良にまで「喧嘩が強いやつがいる」という話が出回り、さらに喧嘩をすることが多くなりました。
ある日暴走族に呼ばれて行くと相手は50人いました。
仲間は10人いましたが、ほとんどが逃げてしまい、最終的には2人で戦いました。
さすがの朝倉選手でも大人数には勝てず、喧嘩で初めて負けてしまいました。
2人で戦った仲間の1人は現在一緒にユーチューブ活動をしている吉田くんでした。
朝倉選手といえばこの50対2の喧嘩はとても有名ですね。その後、負けた暴走族にやり返そうと敵対する暴走族に入り、自分をボコボコにした相手を一人ずつボコボコにし返したそうです。
他にも衝撃的なエピソードがあります。暴走族時代に、相手の事務所まで行った際に頭に拳銃を突き付けられた過去もあります。
普通なら怖がるところですが、朝倉選手はその頃「いつ死んでもいい」と思っていたため、恐怖はなく動じなかったことで、無事に解放されたようです。
朝倉選手が生きてて本当に良かったです。このころは常に刺激を欲し、刺激中毒だったと自身で当時を振り返っていました。
少年院時代
暴走族に所属してからは無免許でバイクに乗るようになり、それが理由で16歳から1年4か月間少年院に入ることになります。
少年院に入る前には極道の道も考えていたため、当時は少年院に入ったことで「より箔がつく」と思っていたそうです。しかし、母親から毎月送られてくる手紙を見て、徐々に朝倉選手の気持ちに変化があります。「母親や地元の友達たちを悲しませて、このままでいいのか…」
少年院で自分のこれまでの自分と向き合い、悲しませた家族や友達のために自分を改めようと思ったそうです。
格闘技との出会い
少年院を出た後、親友に格闘技の試合を見せてもらったことが朝倉選手の人生を大きく変えました。
そこでは喧嘩の延長のような戦いがあり、「自分が戦ったことがない相手と戦い、自分の強さを証明したい」と思うようになりました。
すぐにTHE OUTSIDERに履歴書を送ったそうです。
また、空手道禅道会豊橋道場へ稽古に行くようになり、格闘技選手と初めて稽古をすると、朝倉選手は太刀打ちできませんでした。
そこでの敗北が朝倉選手を更に「強くなりたい」と思うきっかけになり、格闘技と真剣に向き合い始めました。そして、弟の海選手も誘い、一緒に練習をするようになりました。
そこから二人の格闘技人生がスタートしました。
まとめ
朝倉選手の生い立ちいかがでしたか?
過激な生い立ちでしたが、そんな過去があって今の朝倉選手があるのですね。
不良少年時代の朝倉選手も現在の姿を想像もしていなかったことでしょう。
格闘家としてさらに今後は、海外進出も楽しみです。朝倉選手は格闘技を30歳で辞めると公言していますが、ファンとしては少しでも多くの試合を見せてほしいです!
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