ブレイキングダウン見るならABEMA

朝倉未来が路上の伝説と言われるまでの経緯

格闘技界のカリスマ的存在の朝倉未来選手。

そこに至るまで、喧嘩に明け暮れ、勝ち続けることで路上の伝説と言われていました。なぜ彼が路上の伝説と呼ばれるようになったのでしょうか?

タップできるもくじ

路上の伝説になる前

朝倉選手は1992年に愛知県豊橋市で生まれました。父親の強くなって欲しいという思いから極真空手を習い始めます。

空手の練習もハードでしたが、一番キツかったのは自宅での父親が課したトレーニングであったと話しています。

具体的には腕立て伏せ200回や、スクワット500回。そのトレーニングをこなさないとやりたいことを行ってはいけないというルールもありました。

朝倉選手は弟と共に、逃げることなく、最後まで時には泣きながらトレーニングに取り組みました。そのおかげで、逃げずに最後までやり遂げることを学んだと言います。

空手の試合は父親がよく見に来てくれいたようです。試合では体重差のある相手に試合をすることが多く、朝倉選手が怯んでしまうことが多いことを父親は気づきました。

そこで、朝倉選手の気持ちを強くしたいと考え、小学4年生から相撲を習い始めました。

相撲では自分より大きな相手に勝つことで、気持ちの弱さを克服しました。小学校時代は相撲と空手で毎日格闘技漬けの生活だったそうです。

路上の伝説のはじまり

中学生になると先輩から敬語を使え、調子に乗っていると言われ、朝倉選手は「なんで年上だからって敬語使わなきゃいけないの?」と思っていたそうです。生意気だと先輩に呼び出しされると、10人の先輩たちが待っていました。

朝倉選手は怖がることなく、10人の先輩たちを圧倒しました。

そこから、喧嘩が強い奴がいるという噂が流れ、喧嘩を売られることが多くなり、毎日喧嘩に明け暮れることになりました。

喧嘩無敗で名前が知られ、ある日ある暴走族から、自分達のグループに入らないかと声をかけられました。しかし朝倉選手は、暴走族は群れないと何もできない卑怯者だと拒否し、それに怒った暴走族が喧嘩を仕掛けてきました。

相手は大人数を連れてくると考えた朝倉選手は仲間を10人ほど呼びました。しかし相手は50人おり、武器も持っていたため、仲間は怖がって逃げてしまい、結局朝倉選手とのちに朝倉未来チャンネルのメンバーになる吉田くんの2人だけで闘うことになりました。結果は圧倒的に負けてしまいました。

朝倉選手は眼窩底骨折の診断を受け、視力が全く見えなくなったこともありました。顔も腫れ上がりひどい怪我だったようです。

朝倉選手は50対2の喧嘩で負けてしまった暴走族にやり返そうと敵対する暴走族に入り、一人一人倒していったそうです。本人も当時を振り返ると、喧嘩が楽しく、少しでも強い奴とやりたいと喧嘩中毒であったと話しています。

50対2の喧嘩以外は無敗で、近隣の地域の暴走族のトップに勝ち続けることで、路上の伝説と呼ばれるようになったそうです。

しかしその後暴走族として、無免許運転で少年院に1年4ヶ月入ることになります。

そこで朝倉選手は更生し、格闘家を目指すことになりました。

まとめ

朝倉選手の路上の伝説と呼ばれるまでのストーリーいかがでしたか?

喧嘩に明け暮れ、少年院に入っていたどん底の人生から更生し、現在はRIZINのトップ選手として活躍しています。朝倉選手のストーリーは多くの人にも勇気や希望を与えていることでしょう。

今後も路上の伝説として、日本だけでなく世界での活躍を期待しています。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

タップできるもくじ